だいさんのまど(仮)

手書きの日記は字が乱暴で読めなくなりました。じゃあせっかくなので世界の片鱗に刻んでみようかな。書いて読めりゃいいんだ。

今、ダイスケさんのインスタライブ見ながら、neruneさんの動画見ながら、これ書いてる。すごいマルチタスク

 

昨日、内視鏡検査した。乗り越えた(ドヤぁ)。乗り越えたという事に意味がある。乗り越えなきゃいけないことだと思っていた。

直腸が赤く傷ついて、ただれていた。このおなかの痛みはこれか~と謎が解明されてスッキリした。まだ、検査の結果は残っているんだけどね。

 

 

 

今日は日本語教員養成課程を続けている4年生の実習クラスに顔を出してきた。

感想は彼女に送りつけたから、それ読んでください。

ここには追記を書きます。

学習者のみんなが終始笑顔だったのは、彼女含むチームの努力の賜物だ。そこを伝え忘れていたな~。私はまだまだだ。この約1年以上の間に、みんなとの大きなギャップを感じた。みんなの学習者への対応、言葉の選び、表情、オンラインという状況下でこんなに思いやりって伝わるんだなあと。何よりも、みんな「楽しんでいる」んだなあ。きっと人は「楽しめる」ことをすべきなんだろう。それが生きている意味というか、生かされていることへの恩返しなんだと思う。最近そう感じていたことにもつながった。

 

 

 

 

話は変わり。

私は学びたい人だけれど、成績がよくないから、奨学金がもらえない。

やっぱり「数字」で証明するのか~、というか「数字」じゃなきゃ証明できない、ということを、私は府に落とすことがなかなかできないでいる。

私は「人生学び続ける」を、諦めずにテーマにしてみるしか?ちょっと焦りすぎかな、人生を。

 

 

 

 

 

 

サラさんのことしゃべるダイスケさん、本当に幸せそうで、、、

そんな活き活きとして話す、勉強好きで、芯があって、顔がカッコイイダイスケさんのファンも、ここにいるという事を伝えてぇけれど、なんか自分のガチファンとか嫌いそうだな~。「それより、ウチのサラさん応援してくれよ」って思ってそう。

ほんとうに、いい奴だったんだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近、もうすぐ暗いトンネルが明けて、まぶしい光が見えてくる、

そんな気がしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は愛されている。

どんな過去の秘密も、恥ずかしくて、憎くて仕方ないことも、全部全部。

言葉にすると軽くなってしまうけれど。

誰に陰口をされても、悪口を言われても、

それが嘘でも、真実でも。

私が私として、胸を張って生きることを許せるのは、私しかいない。

それが「受け止める」ということなんじゃないかな

 

ありがとう。私を愛してくれて。

こんなにもらった大きな愛、返せなくて、ごめんね。

 

その代わりに、私がちゃんと前を向いて、歩いていくことを、誓うから。

あなたのおかげで、きっと、形ある愛を知れたような気がするよ。

 

世界は、そう狭くなくて、

私が「忘れてた」人が、実は私のことを記憶してくれていたりする。

 

ありがとう。

 

 

私にこんなことを気づかせたという事実が、あなたの財産になってほしいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先日、病院に行って、内視鏡検査をやるって決まってから、

不安が押し寄せてきたと同時に「あ、これは越えなければいけない山だ」

「これを越えれば…」って確信した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次会ったときは、とびきりのスマイルを、あなたに見せられると思う。

柳田國男は『木綿以前の事』でこのように言っていました。「どうしても独の力では始末できぬように、この世の中はなっているのである」「(でもそのことを)静かに考えてみると損もあり得もある」「(そのなかには)もっと我々に相応した生活の仕方が、まだ発見せられずに残っているように、思っている者は私たちばかりであろうか」と。

「独りの力では始末の」つけられないことが僕たちにはたくさんあります。でも、美しい布にはひとの心を動かす力があります。そしてひとには、発見する力がある。きっとそのふたつの力が、何かを生み出していくだろう。そう思いました。

                     ―― 三谷龍二『「生活工芸」の時代』

 

自分の子さえよければ

わたしは、人間のほんとうの幸せとは「充実感のある生き方」だと思っています。骨を折らない、つまり、努力を必要としない仕事に充実感はありません。

 

たとえ、親よりも苦労することがあっても、親よりもたくましく。親よりも

根張り強く、人生を生きぬいてゆく力と智慧とを子供に与えておく、それが一番正しい親の愛情であり、義務であると私は思います。

 

負ける練習

長い人生には自分の思いが通らぬ場合がたくさんあります。思うようにならぬのが世の常であり人生です。むしろ、自分の思うようにならぬほうがはるかに多いのが人生です。それならば人生の的を思うようにならぬ方に合わせるべきです。思うようにならぬ――それは、ことばを代えれば負けることです。カッコよく勝つことではありません。自分の思い通りカッコよく勝つことは人生ではごく稀です。だから人生の的を確立の少ない〈勝つこと〉に合わせないで、確率の多い〈負ける〉ほうに合わせておくことです。それが負ける練習です。(中略)勝つことばかり考えて、過保護に育てられた子供は、その分だけ「いのちの根」が浅く、親亡き後の本人の負担が大きいことを知るべきです。

                      ―― 相田みつをにんげんだもの

 

 

 

人生、自分ひとりの力じゃどうにもならないこと、思い通りにならないこと=負けることが、大半だという。

そんな同じ話が、たまたま手に取った本のどちらにも書いてあるんだから、本当なんじゃない?

最近、「色」に興味が出てきました。

 

きっかけは、6月に受講した「自分デザイン講座」。

色に「意味」があることを知ってから、色についてのシナプスが自分の中で増えた気がする。

 

メイクにも前より興味が出て、特に「自分似合う色・メイク」が気になり始めた。

 

一年前に買った「色彩検定」のテキストを広げて勉強してみたり、色についての本を読んでみたり・・・

身の回りの「色」に、私たちはかなり影響されていることを知った。

 

色をもっと意識すれば、暮しが豊かになる。

 

たとえば、家具、食器、食材や料理。

自然が生んだ色と人間の目があるゆえに色が認識できることを、改めて人体って奇跡的だよな、と思った。

 

とにかく、私はもっと、美しくなって良い。

私が心惹かれるものを突き詰めて良いよ。

そういう声掛けを自分にしてあげたくて。

なぜかと言えば、「周りの人がどう思うか」、とか、「私なんて・・・」という気持ちで抑え込んでいた感性の部分だったかな、って思うからです。

ゆりかさんのメルマガあたりから「本来の自分」を取り戻すトレーニング中って感じ(笑)

 

よかったね。そういう時期なんだね、って思う。

もう少しかな。ゆっくり。

なんちゃってジャーナリスト

海洋プラスチック問題を知ってから、アイシャドウなどに使われているラメがプラスチックアできていることを知った。さらに「プラスチックフリー」という言葉を知った。

 

それからというもの、なんとなくマットアイシャドウを手に取ったのは、この問題がどこかで引っかかっているからなのか・・・

 

小さい頃から環境汚染に対して問題意識があった。でも、それに対して考えるだけで、行動に移せてなかった。この際だから、やっぱり環境に優しいものを使いたい!

 

 

プラスチックフリーについて調べていたら、「動物に対して残酷な処理をせずに作ったメイクブラシ」というものを見つけた。私はこの「残酷な処理」という言葉に引っかかった。

昨日、ボランティアで豚を1匹育てて食べるプロジェクトを、テレビで紹介していた。「これきっかっけにヴィーガンになる人がいるだろうね」と私は言った記憶がる。

それで「ヴィーガン」についても調べていたら、1か月ヴィーガン生活をした人の記事がヒットした。実践する姿が、私の高校の時から尊敬している友人と重なった。

「実践してみる」って、私にはあまりない考えだと思った。本当にどんなものか理解したい、気になる、という気持ちがあるならば、自分の身体を使って実験してみるだろう。その姿に、自分がしょうもなくちっぽけな存在に見えた。そう思ったさらなる理由としては、その記事の書き手が「学生エディター」だったことにある。

そうか、「ジャーナリズム」ってこういうことか・・・と思った。実際に自分が体験して、それを世に伝える。この形こそ記者のあるべき姿なのか、と。

一方で、私は、ただ文章を書いて満足するタイプの、薄っぺら――――ー―い、飛んだ「勘違いジャーナリスト(自称)」だったのか。そう、思い知らされたのである。

 

 

 

 

 

「仕事とは?」「何を仕事にする?すべき?」という考えが頭の中をぐるぐるしているけれど、そして「資本主義なんてクソくらえ!」「日本社会なんて・・・!」と思っている自分がいた。しかし、そんな「勘違い野郎」だった私こそ、愚かな金儲けの経済循環のなかの一人なのかもしれない。「お金になればいい」そんな気持ちが、実は、あるから。逆説的なことが起こっている。

 

黙って、社会の中の一員となってみたら、案外「人情」でこの世は動いているのかもしれない。

 

なんてね

 

 

 

 

あ、私の問題意識って、結局「環境問題」と「食の多様性」に向きがちだな、ということは書いておいた方が良いと思うので。

そこから何をどうするかは、あなた次第なわけで。

差別について

(以下『暮しの手帖』13号 128ページ ('21.7))

 

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「私は差別をしない」

では差別はなくならない。

「差別に反対する。闘う」

でなければならない。

ー角南圭祐 共同通信記者 著書『ヘイトスピーチと対抗報道』('21.4)

 

 

ヘイトスピーチについて議論すると、差別される側にも問題がないとは言えない、どっちもどっちではないか、といった議論が出てくる。だが、それは議論とは呼べない。問題なのは明らかに加害者だ。被害者からの声を受け止めることは重要だが、受け止めた後、「私は差別をしない」と宣言するだけでは不十分だ。差別を消すためには、加害を止めなければいけない。中立公正として逃げる姿勢は、時に差別への加担にもなる。反対する、という表明が必要だ。

 

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これを読んで私ははっとした。

私は今まで「私は差別をしない」という人だったなあと。

 

この文章でポイントなのは、「差別をなくすため」というところ。

「私は差別をしない」という姿勢は、差別問題そのものの議論から逃げ腰の姿勢であり、「私は関係ない」という言葉に言い換えられるだろう。「いじめ」の見て見ぬふりと同様だ。

 

私もいじめにあったときは、周りの子が助けてくれないことにひどくショックを受けた。怖かった。私には、「みんな」のメンタルが強いのだと思った。しかし、残念ながら、「みんな」は他人の気持ちを推し量り、思いやり、行動に移すことができなかったのだ。私のように、他人のために涙するような人間ではなかった。悲しかった。そんな人の方がこの世界に多いのならば、私は社会不適合者で、社会はそのマジョリティー・ピープルで回せばいいじゃん。

 

そんな考えにもなるのだ。

 

でも、今の私は、残念ながらマジョリティー・ピープルということになる。

 

私は今後差別問題の局面に立ち会った時には、胸を張って「反対だ」と言いたい。

 

無題

何から書けばいいかわからないほどに、色んなことを考え、ためてしまった気がする。

 

あ、そういえば「いろんな」って「色」んなって書くな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は2年ぶりに友だちに会ったのだが、なんだか素直に嬉しいと思えない自分が憎い。

気疲れすることに気づいたのは、HSP気質に気づいく少し前から、そういえば彼女の前で素の自分で入れていなかったな、合間を縫って会いたいわけではない、という「本音」に気づいてしまってから。

 

去年は私が(コロナ禍という事が大きいが)会いたくなくて、お誕生日メッセージさえも送ってなかったから、尚更こちらとしては純度の高い笑顔では会えなかった。

最近、言葉にして吐き出す暇もなく、頭に靄がかかっていたせいでもあるだろう。

 

申し訳ないと思っている。まあまあ深い関係になった人に対してこう思ってしまう状況の私に対して腹が立つ。

 

実際に、彼女に会う場合は私は専ら聞き役だ。

彼女は理性的で考え方として参考になる部分もあって、そこは一緒にいる価値があると思えるが、ものやひとに対する「好き」、「嫌い」がはっきりしていて、さらにその言い方が「嫉妬」を帯びているように感じたり、マウントを取っているように感じたりするところに違和感を持つのだ。

 

そして、私には、彼女をおだてることに徹してしまうという、高校からの悪い癖が染み込まれている。

 

2年という月日が、私を少し変化させたから、嘘は(ほぼ)つかなくなった。

いや、嘘だ。嘘をついているな、今振り返ると。

「言葉の嘘」はついていないにしても、「態度の嘘」をついていたな。

初めて見たわけじゃないものに対して、初めて見たようなリアクションをした。

 

まあ、こんなことは、岸○太くんが息をするようにやってるからいいか(そんなところ含めて彼が好き)。

 

嘘をつく自分が嫌い、と書きたかったけれど、それはすなわち岸くんのことも「嫌い」ということになってしまうので、この件はもう議論する必要がないかもしれない。

 

 

私も岸くんも優しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女の良いところを一つも書いていないけれど?

なんだろうな。考えがまともで理性的なところかな。冷静沈着だ。彼女が焦っている場面を見たことがないかもしれない。そういうところが、私にはないから、すごいなと思う。あと、美容家なところ。その点私よりも感性的かもしれない。

そうなってくると、「あんすた」の話を含め、彼女の「魅力」の尺度、気になる。

やっぱり気になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

ほら、どうせ、また会う。