差別について
(以下『暮しの手帖』13号 128ページ ('21.7))
--------------------------------------------------------------------------------------------------
「私は差別をしない」
では差別はなくならない。
「差別に反対する。闘う」
でなければならない。
ー角南圭祐 共同通信記者 著書『ヘイトスピーチと対抗報道』('21.4)
ヘイトスピーチについて議論すると、差別される側にも問題がないとは言えない、どっちもどっちではないか、といった議論が出てくる。だが、それは議論とは呼べない。問題なのは明らかに加害者だ。被害者からの声を受け止めることは重要だが、受け止めた後、「私は差別をしない」と宣言するだけでは不十分だ。差別を消すためには、加害を止めなければいけない。中立公正として逃げる姿勢は、時に差別への加担にもなる。反対する、という表明が必要だ。
--------------------------------------------------------------------------------------------------
これを読んで私ははっとした。
私は今まで「私は差別をしない」という人だったなあと。
この文章でポイントなのは、「差別をなくすため」というところ。
「私は差別をしない」という姿勢は、差別問題そのものの議論から逃げ腰の姿勢であり、「私は関係ない」という言葉に言い換えられるだろう。「いじめ」の見て見ぬふりと同様だ。
私もいじめにあったときは、周りの子が助けてくれないことにひどくショックを受けた。怖かった。私には、「みんな」のメンタルが強いのだと思った。しかし、残念ながら、「みんな」は他人の気持ちを推し量り、思いやり、行動に移すことができなかったのだ。私のように、他人のために涙するような人間ではなかった。悲しかった。そんな人の方がこの世界に多いのならば、私は社会不適合者で、社会はそのマジョリティー・ピープルで回せばいいじゃん。
そんな考えにもなるのだ。
でも、今の私は、残念ながらマジョリティー・ピープルということになる。
私は今後差別問題の局面に立ち会った時には、胸を張って「反対だ」と言いたい。