だいさんのまど(仮)

手書きの日記は字が乱暴で読めなくなりました。じゃあせっかくなので世界の片鱗に刻んでみようかな。書いて読めりゃいいんだ。

『ファッション イン ジャパン 1945-2020 ー流行と社会』国立新美術館

に行ってきました。

 

花森安治さん、「暮しの手帖」との出会いが運命的だった。

軽く、直接、インスタで書いてます。

 

 

 

あと、何か言いたくてここに来たんだけど・・・

なんだったっけ。忘れた。

 

 

 

でも、とにかく、自分の凝り固まった頭が徐々に解けていくのはわかりました。

Be free.って感じだった。

 

ああ、柳生悦子さんがアイドルのメンバーカラーの第一人者なんだろうな~とかね。

 

ファッションの歴史、色々見たけれど、結局私は「昭和モダン」の時代が好きでした。

あとは、「アート」って感じで難しいな~自由だな~と思った。

帰ってきて、母がこの美術展の公開映像見てて、「DCブランド」とかなんとか言ってたけれど、ああ、ドンピシャで時代なんだな~と思っただけで見ていたけれどピンと来ているわけでもなかった。

 

戦後、モダンガールの時代に「洋裁学校ブーム」が来たってのは、面白いな、と。

そういえば学校の図書館にそんな関連の本あったでしょう。eメール見返して読みましょう。

 

森英恵(はなえ)、森泉さんのおばあさん、すごい人だった。

 

 

思い出しました!

第8章のところ、コロナ禍で色んな環境問題・社会問題が浮き彫りになる中、さらに「持続可能な」取り組みを、ファッション業界でもしていこうぜ!っていう諸々の活動に参加してみたい、って思ったんだ。

 

「私に何かできることは?」と頭の中で思うだけで、特に何もしてこなかった私。

小さい頃から環境問題が気になっていたのに。

だから、少し動いてみたいなと思ったのです。

 

ファッションの歴史を見て、「ファッションの規格はない」ってことを感じたので。

第8章のファッションデザイン・思想を見ても「それもありか」と思わせられてウキウキしたので。

 

やっぱり、脳みそを縛られていたくないね。

率直でありたいんだ

他のページ開いたら、上書き保存されてなくて、参ったな。

二度と同じ絵が描けないのと一緒で、

二度と同じ文章も書けないのに・・・

 

もう一度、同じ内容を書くことを試みる。

 

 

インスタグラムで「投稿」する文章は、「見せる仕様」にどうしてもなってしまっているという話で、私は「飾っているな」と思われたくないから、率直なことをその後のストーリーに書いた、って話だ(何を書いたか思い出したければ今日の日付を参考にストーリーをさかのぼってください)。

「自虐」が他人をも傷つけていないか、と心配になってしまった、という事をここに言いに来た。でも、私はそれよりも「率直でありたい」という想いが勝るのだろう。

 

 

よかった。再現できた。

 

 

 

 

ところで、新タブを開いて何を調べていたかといえば、

ジョハリの窓」だ。

 

このブログの名前に「ジョハリの窓」のうちの第3の窓、「秘密の窓」がふさわしいと思ったのだ。

誰の窓だっけな~と思って調べたということです。

 

 

 

候補:『第3の窓』『三番目の窓』

 

「ジョハリ」ってつけちゃうと面白くないから。

「なんで3?」と思わせたいという心です。

 

 

由来としては、今回のインスタの件がヒントになった。

「表には出してないけれど、率直に感じているのはこうだよ。興味ないかもしれないし、あなたが傷つかない保証もないけれど、それでも見る?見たいならご自由に」。

 

そんなつもりで書き刻んでいるしね。

だって、インターネットの片鱗にこのように、ね。

教えてもないし、見つかってない、というだけ(のはず)。

欲と人間関係

ウォークマンが壊れてから、手軽に音楽が聴けないのが嫌です。

スマホは重たい。あのくらい小さいサイズで十分なのです。

余計な情報もいらない。音楽さえあれば。

そう考えると、中学生でウォークマンを手に入れていたあの頃の私は、ずいぶんと贅沢であったなあと。今ウォークマンを買ってなんて絶対無理。

いくらくらいだろうか。

買ったら破産しちゃうかな。

 

 

 

 

 

 

 

ところで、昨日2年ぶりに幼馴染と言っていいのかわからないくらいの友達に会いました。

二人で話し込んだことなんて小学校1年生ぶりで、22歳になって「よっ」ってふらっと会えるなんて普通おかしい。

 

根幹の天然っぽさと、驚くほど素直なところと、話が若干オーバーになってるように聞こえるところは、小1の頃から変わっていませんでしたが、考えがしっかりしていて、日本語を巧みに操ってしゃべる様子や、理性的な大人になっている様子に感動さえしました。こうやって人は成長するんや、同い年だけれど、すごく立派に見えました。

 

卒論の協力だということで、話題に困らなかったのはありがたかったが、それ以上に会いたい気持ちがあったというのは否定できないから、ただただ嬉しかった。

 

1Q84」を読んだことが共通点だったのが嬉しかったな。

あれで読書感想文を書こうとしたのも同じで。

こういう共通点がたまにあるのは、というか、話がかみ合わないということがなかったのは、奇跡に近いことだと思うのです。

意外と話のテンポとか、声のヘルツが合わなくて、会話が成り立たないことの方が多い。問題なく話ができるということは、なかなか珍しいことだから、きっと大切にしなければいけないんだと思う。

 

 

 

 

まあ、本音を言えば、卒論の協力という口実なしに、普通に遊びたいです。

その欲はおそらくバレている。

ノート(ゆりかさんのメルマガ2日目)

「理性」だけで生き過ぎていた。「感じろ」。

 

「自己分析」で過去を振り返る行為は、潜在意識の刷り込みによって、

負のスパイラルに陥る。

トラウマや悪い出来事の方が、良い出来事よりも記憶に何倍か大きく残りやすい、

とかいう研究もあるらしいし。

「思い出す」という行為を繰り返していたら、

私はこの先ずっと「過去」に生き続けることになる。

私はいつだって、「今」が一番若い。

「今」、「今」。

 

 

「つまんない」は、本当に無駄。

私の中の95%の「潜在意識」と「感性」で

「ワクワクする」と感じるものを選び取っていく。

=「ゾーン」に入る。

 

「考える」な「感じろ」。

 

 

 

 

 

 

日本の「集合的無意識」は敵だ。

 

「場の睡眠」に染まりやすいから、

私が身を置く環境はとーーーーーーーーーっても重要。

 

「愛」「調和」「つながり」「与え合うこと」「循環」「平和」な世界に向かおう、

今こそ。

「感性」豊かに、人とのつながりを大事にして、自由自在に生きていく人。

 

「~せねば」、「~すべき」という「思考」にとらわれた世界から、

「ワクワク」、「楽しい」という「感性」を大切にする世界、

私は、ふたつの世界を体験できている世代。

 

後者の世界へ。

「考える」な、「感じろ」。

8/8

【メモ】

・記憶と世界の片鱗

 

・「環境さえ整えれば『強い』」

 

・返信がないのは、やっぱり気になってしまう

 

・ブログを公開しようか悩む

 

 

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新国立美術館「ファッションインジャパン」展 チケット取る

 

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・嵐さんの音楽が一番元気が出る(定期)

 

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・どうしても雑務してしまう。

今日はBTSの新曲を、デジタルなら1曲241円だから、買って、CDに焼いて、わざわざ母のために。誕プレだということにしとく。

気づけば、車のCD整理に時間を割いて。

本品は保護し、ダビングし、上手くいかなかったり、なんだり。

『Love Yourself 結: Answer』のB(Disc2)が、ああ、そういえば行方不明で、

私の推理としては、前の車に置き去りにしたまま車替えた説。

前の車、CDデッキが壊れてて、CDが出てこなかったりしたんだよね。

絶対それだと思ってる。

せっかく誤印字カバーのレアものなのに。

中身そろってなくちゃ価値がないじゃない。

 

そんなこんなでとりあえず整理した。

ダビング用CDある分だけ替えたって感じか。

 

とりあえず、まあいいや、となったので、まあいいや。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明日に返信なかったら、アラフェス見よう。

環境が許せば。

 

間違いなく、明日は映像を消費しよう。

 

オタクは基本コンテンツを控えているって事実が、やっぱり幸せ感じるよな~

 

 

 

 

 

 

 

あ、そういえば最近、アイドルも好きで仕事やってるだろうけど、

「仕事は仕事」という明確な区別、というか、そういうものがあるんだろうな、と。

てか、その区別・けじめが必要なんだろうなと感じ始めた。

「仕事」としてアイドルをやる。

「仕事」として芸人をやる。

「仕事として」。

特に、私が尊敬している二大職「アイドル」と「芸人」、あとアーティストとか、

の人たちに対して、「仕事」をしているという目線で見るようになったんじゃ。

 

「憧れ」とかとごっちゃになってた「仕事」という概念が、

切り分けられてきた感じ。

「大人になった」ようで、少し嫌だが。

そう考えると、自分の「生業」を考えるということは、今まで私がしてきたこととは

かなり違うのかもしれない、と思うようになって。

 

 

 

 

ここ1か月で、学校に行くようになって人と会うようになってから、

最近の記憶を思い出すという作業を再開するようになった。

おかげで、脳細胞が生き返った感じがした。

竹下さんが「行政組織の一部が、外部企業に委託されている」という話をしていて、

あ~、公務員試験受からなくてもワンチャン的な思考回路を思い出したわけ。

あと、キャリアセンターにおんぶにだっこで、何かしら職は見つかると、言っているので、全く保証はないが、いきなり就活なんてやーめた、となった。

 

 

どうにかなるって、知ってたくせに優等生ぶってたのが苦しかったな。

 

もっと呑気に、楽観主義的に生きてたから、私は突拍子もないことをして、ラッキーなことに生き延びているんじゃん。

 

なら、今やりたいこと、今楽しいこと、そっちの方が優先だ。

 

あ、日本語教員養成課程は4年間の学部生のうちでないと履修できないらしいので、

研究生も院生も魅力的ではなくなった。

ぶっちゃけ小さい頃から勉強は自分でいくらでもできる遊びだと思ってきてん、ほな、学生ちゃうくても己で遊べぇ。

 

 

 

ということで、今を生きることにした。

未来のことなんか、今考えるだけ無駄や。

毎日泥沼。

今日も罪悪感におそわれた。

 

 

日本語教員養成課程は、もうあと100万積まなきゃ(5年生をやらなきゃ)無理だって。

ま、資格じゃないし、いっか。

で、この件はそんなかんじ。

 

 

そしたら、何が罪悪感かって。

さっき、一年生のころに受けた「キャリアガイダンス」の資料を見つけて読み返してた。

 

 

 

 

 

これ、一年で聞いてたんだよね?

 

私、何した?何できてた?

 

 

 

 

 

 

「後悔」とはこのことか。と言わんばかりの「後悔」が肩に落ちてくる。

 

 

でも、その内容は、今私が嫌いになってしまった「行動主義」なるものだった。

 

 

それにしても、一年の頃の私ったら、自分が3年後に「ニート」寸前になることなどつゆ知らず。

堂々とした態度で4年に紛れて話聞いてたんだろうな。

鼻につくわ。

 

 

 

 

 

 

 

と、こうして過去の自分を思い出しては、今の自分と比べて落ち込んでみたり、

過去の自分を馬鹿馬鹿しいといじめて、今の自分を正当化してみたりする毎日。