だいさんのまど(仮)

手書きの日記は字が乱暴で読めなくなりました。じゃあせっかくなので世界の片鱗に刻んでみようかな。書いて読めりゃいいんだ。

容量の解放 7/21(2021)

2日空いてしまいました。

 

 

【昨日・一昨日の出来事メモ】

19日(月)面接をドタキャン

20日(火)前期最後のゼミ 

     学務課・学生生活課 Tさん K先生にもちらっと、休学の話

 

 

ここ2~3日で色々考えたことも多かったりしたはずで、書こう書かなきゃ、と思っていたはずが、ずるずる先延ばしにして、ほとんど忘れた。

 

 

でも、止まっていた時計が動き始めた気がするのは確かだ。

 

 

すべてはO先生にメッセンジャーを送ったことが始まりだ。

 

 

あ、ここ1年のことを振り返ろうと思ったことを思い出した。

少なくとも2021年上半期は振り返るべきだと思った。

 

 

 

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関係ないことだが、今、私はおばあちゃんが作ってくれたスパゲッティを全部食べ切れずに捨てた。

それを見た妹が

「あんたみたいな人がいるから食品ロスが減らないのよ」。

私の言い分としては、

・作ってくれた人に「食べ残し」を見られるほうが罪悪感でいっぱいになる

・自分が無理して食べて体調を壊すことを防ぐ

という2つの理由があった。

 

でも、食品ロスは深刻な問題だと思う。

自分の問題意識と行動が矛盾してて、言われなければ気づかなかったと思うとそれはそれで、怖っ、と思った。

 

「今度からは捨てないようにしま~す」

とだけ言っておいた。というか、捨てない方が絶対に良い。

 

課題はこの「罪悪感」を一人で抱えることを克服することだ。

 

私は一人暮らししてないんだし、食べ残しておけば、誰かが食べたいと思って食べるかもしれない。

私に一番かけてあげるべき言葉は

「まあまあ、そう焦らないで」

ということだ。

 

今日の夜に、母が食べてるかもよん。

 

あと、誰に何を言われようと、己の腹がいっぱいなら(幸せなことだ)

「おなかがいっぱいだから、食べない」

とか

「おなか痛いから、食べられるだけ食べた」

とか言えばいいって話だ。

 

22歳になっても「頭の中にある本音を言葉にして伝える」というリハビリを

しなくてはいけないなんて情けないなあと思うけれど、

どうあがいたって、所詮「私」なので、さっさと折れた方がいい。

 

 

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話を戻したい。

2021年上半期を振り返りたいところだった。

 

 

振り返るほど記憶があるのかといえば、

コロナ禍で極端に人と会わなくなり、話さなくなりで、

かなり記憶喪失が激しい。

 

その代わり幼少期のことをよく思い出したりするから、

若年性認知症なのかとも疑ってしまう。

 

 

私は真面目なので、

インスタのストーリーと手書きの日記を見て、

一日一日思い出すような作業をしそうで怖い。

 

 

過去を振り返る目的は、

少なくとも今回の場合は、未来の目標を定めるためのものだ。

 

ということを、わざわざ口に出して言っておきたい。

 

 

 

 

 

現在から遡るように振り替えることにしよう。

 

 

 

 

まず、現在。

 

7月20日(火)

ついに、休学についての話を事務の人に相談しに行く。

人生のプランニングのいくつかのシュミレーションをして、そこから選ぶべきだと思ったから。

専攻アシスタントTさんのもとにも寄ってきた(学校に行った本来の目的はゼミ)。

わざわざTさんが紙に書いて、整理しながら一緒にシュミレーションしてくれた。

 

Tさん、すげえな。と思ったのがこの時で、一学生のために紙とペンを取り出し、親身になって一緒に考えてくれる。アシスタントが天職なのではないか。

 

このとき、色々なことを反省する。

・2年次の最後、3・4年次演習の先生を決めるとき、私は人気の先生を第一志望としていたので、課題を期限までに終わらせなければ選抜の権利を失うことになっていた。しかし、私はその課題を締め切りまでに終わらせようとしなかったのだ。

 この時から、今まで、すべてではないのだが、締め切りを破るクセがついた。

 

・私は口では「勉強したい」というくせにGDPが高くなかった。「奨学金を狙おう」とかいう、カッコイイ野心はなく、まあ、無理でしょという感じで、それでいて「院に行きたい、でも、金がない」というのは、どこのボンボンだ、という話で、そもそもウチには金がない。

 

これらが回想された大きな2点だったのだが、「なんか行動で示せてない感」という共通点がある。

これは私が病気のせいなのか、ただ性格が厄介なのか。

 

 

『少なくとも高校生までは、もっとマシな人で、もっと野心家だった』

 

と、よく私は私にそう話す。

 

 

変わったものの一つとして、最も大きいのは

私を鼓舞する人がいなくなってしまったこと。

 

高校時代に周りにいた人たちは、なんとなく「仲間」という感じ強かった。

「団結力」この言葉に尽きるかもしれない。

「切磋琢磨」とか、こんなきれいごとみたいな言葉が、実現していた楽園だった。

 

 

なんで私は、こんなにインスピレーションを受けなくなってしまったのか。

 

理由として、経験とともに自分が出来上がってきたから、なんだと思う。

 

 

 

でも、私は「出来上がってきた自分」を疑ってしまった。

 

 

 

「本当にそれが好きなのか?」「本当にやりたいのか?」

 

そして、何より他人が興味があることに興味を示し、

でも、実際にはそのものに興味があるわけではなく、

「みんな」が何をしているのかが気になっているだけだった。

「個性」という概念を理解しないまま、

他人と自分を比較し、自分を卑下した。

 

 

私は気が済むまで自分をいじめ倒す変態なので、

とりあえず、底に着くまで堕ちてみた。

 

実際、底なんて自分だけでは到底わからず。

 

とうとうO先生に助けを求めた。

 

人って、苦しいと、救ってくれそうな人に助けを求める。

 

今回はその人選が成功した(ヘルパーが誰でも良いということではない、ということ)。

 

 

 

ご縁とは、「人選成功」のことではないかと思ったりする

 

(相変わらず考えというか、言葉がやらしい)。

 

 

 

 

人とのつながりは何とか保てたから良かった。

私自身が、暗闇を抜け出すいくつかある手段の中から選択して行動したのだから。

人間らしくて、偉いと思う。

 

偉いことをして、そこから上昇気流に乗っかて、

「私がやりたいことはこれだ!!」

なんて腹をくくれるところまで来たかというと、まだ、そこまでではない。

 

無気力なままなのは変わらない。

情けない、とも毎日思う。

 

 

 

最近ふと思い出すのは

「『偶然』の連続で未来は決まる」という言葉、大学周辺地域の活動で一緒になったおじさん(大学でも教鞭をとる人)が言っていた。

 

 

本当に、そうなんだろうな。私の道も、そうやって決まってきた。

 

力ずくで曲げてしまったものは、どうしても後悔される故も、

偶然という名の運命で決まるせいだ思う(運命に逆らうということだから)。

 

 

つまり、何が言いたいかというと、ご縁は大切に、ということ。

 

 

私は感覚的に、人や環境をジャッジして、私がいるべき場所を見つけてきたように思うし、それは常に変化の中にあり、交流の中に合った。

 

だからこそ、私が生きるうえで「コロナ」というものは、空気をなくすかのような致命的な禍だった。そこは自分の中で納得すべきだろう。言い訳でも、なんでもない。

 

 

そんな閉ざされ、傷つき、ボロボロになった人間関係のなかで、かろうじて生きている1本か2本かの蔓を手繰り寄せるようにして命をつながなくてはいけない。

 

 

学校という場所が、私にとって如何に素晴らしい場所だったか。

まだ何者でもない若い人たちが、同じ部屋にいて、

それも毎日通えば、無条件に毎日顔を合わせることができる。

 

学校こそが

たくさんの蔓を四方八方いっぱいに伸ばせる場所だった。

そんなに安心して人間関係を構築できる場所が、私にとって如何に楽園であったか。

その条件として、私の通う学校はとても環境が良かった。

環境とは、そこに集まった人々が形成するものだ。

つまり、当時はまだ自分が今よりも青くて柔軟だったこともあり、ひとりひとりの「人」と私との相性が悪くなかった。

 

 

ここまで話をしていると、やはり過去にすがる悪い癖のようにも見えて少し嫌だなあという気がしている。実際に、私は写真を眺めて「エモ」に浸ることが好きな性だ。

その点も「感情が豊か」と言えばポジティヴだが、「執念深い」と言えばネガティヴで厄介な性格であることは間違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分が思っていたよりも、「イベント」の振り返りではなくて、

私の精神的な振り返りになった。それもそうだろう、ほとんどイベントなんてなかったんだから。

 

こうやって、本音を言葉にしたことに意味があるだろう。

頭の中の容量を開ける作業。

 

まもなく、私の頭から、以上のようなことはゴミ箱へ移る。

30日後ひゴミ箱は空になる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんて、人間の脳内を操るようなことは無理だと思いますが、

アウトプットが一番の脳のお掃除だということは間違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふと思った。

イベントごとで振り返るとするならば、マジでコロナ禍でもそんなに悪くなかった。

ちゃんと勉強したと思うし、

何よりも「推し」がいるのは強い。

人の魅力を知りながら暮らす人生は、きっと幸せだ。

 

大野さんの個展に行ったなあ。

BANBANCONもあった。丸二日BTS漬け。

アラフェス、This is 嵐。

そして、年末にはセクゾくんとの出会い(まさに運命)。

 

おばあちゃんと喧嘩したことが最悪だったけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何度オタクをやめようとしても、結局無理なんだしな。

ライブは最高に楽しいし、バラエティーも面白い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

経験上の推論だけど、好きで悩んでるうちが最も幸せである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と、いうことで、ほとんど精神面の振り返りになりました。

大事。とても。

すべての行動は、自分に必要だったからこその行動であったと信じて。

この行動も。

 

信じる力。神は確かに必要なのだと思ったりしています。

 

 

 

とりあえず、ゆっくり思うがままにやるしか方法はなさそうだ。

現実のプランニングを、また自分の手でできるようになるように。

 

 

このあとはとりあえずケンティーのソロコン見よう。